レモンイエローの窓

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9月1日

学校に行きたくない、といまだに思うこととそれを考えてみる話。

 

何年経とうと、どれだけ遅起きしていようと、なぜかこういう日にはバチッと起きたりして。なんか久しぶりにちゃんと夫を見送って、まともな気分になった。

なんだかんだ仕事が決まれば、ちゃんと朝は起きられそうだ。

 

今朝は涼しい。

暦上はすでにそうだとか、気温がやたら高いとか、そんなことはおいといて私の中では9月1日が秋の開始日。大人になってからの悲しいほど短い夏期休暇を体験しても、なぜかこの日はずっと節目に感じる。

いつまで経ってもこの日は、(学校行きたくねえなあ)と言う思いがこみ上げてくる。いい大人なのに。

 

こういう時期は、こどもの学校に関するニュースが増える。

私にはこどもはいないし、今のところ親になるつもりもないから、実際の親の気持ちは分からない。友だちが少ないし、そもそも結婚している人も少ない。近しい交遊関係の中にもこどもはいない。望む望まないに関わらず。いわゆるDINKSってやつだろうか。だからたぶん、いつまで経ってもこどもの立場の気持ちのままなんだと思う。

こういう立場で「もしも」を考えてみてもあまり現実的ではない気がするけど、もしもこどもの立場の人から学校に行くことについて問われたら、なんて答えるだろう?

 

あ、いじめというライトな言葉を隠れみのにした暴行・傷害・窃盗等は論外である。ただちに証拠をおさえて警察に被害届を出すべし。間違っても担任だの教育委員会だのに期待してはいけない。

 

結局は自分自身の経験からものを考えるしかないのだけど、一文にまとめると「すべての状況ひっくるめて向き不向きがあるから行かなくてもいいし割となんとかなるけど、現代を生きていく以上そのデメリットは受け止める必要がある」ってところだろうか。

私はずっと学校が苦手だったし、一時期は保健室登校だった。休むのは絶対許さない、という親だったからね。居場所を作ることができなかった。中、高と似たような過ごし方をして、大学中退。家庭の問題に金銭的な問題に、心が折れちゃったんだな。一人暮らしのフリーターから生活困窮を経て、ずっと非正規だけど暮らしを立て直して多少たくましくなった。若い時のほとんどを余計な苦労に費やした気がするけど、まともに暮らせるようになってからは、大好きな車やバイクを手に入れたり、南の島へダイビングへ行ったり、残された短い「若い時」を急ぎ足で楽しんだ。大人の今のほうが楽しい。こどものころに戻りたい、と思ったことは一度もない。

 

学校は、勉強だけじゃなくて集団生活を学ぶところ。むしろ後者がメインなんじゃないかってくらい。

地方じゃなおさら、自分に合った学校に変えることはハードルが高い。人間関係だってぜんぜん入れ替わらない。そんな中ではやり直せないし、一度失敗したら居場所を作ることもできない。私の育った町では中学受験なんて聞いたことがなかったし、フリースクールの存在にも気づく機会がなかった。それくらい、そもそもの選択肢が少ない。だから、通っている学校や環境がいつでも自分に合うなんてことはないのだ。

それに折り合いをつけるのも、生きていく上であったほうがいいスキルなのは間違いない。いつだって希望が叶うわけじゃないし、環境や人間関係の悩みは、たぶん一生いつでも起こり得るから。人生の終わり際、老人ホームを想像してみてほしい。ホームにお世話になった場合、そこにあるのはやはり環境と人間関係だ。

ということはつまり、順番にクリアしていくに越したことはないけど、多少は先送りにしたっていいんじゃないかってことだ。

こどもを育てるということは、自活できる人間にするということ。大人になるとは、責任を取れること、自立すること。だから、大人になって自立して生きていけるならそれでいいのだ。私の思う結果オーライとは、この場合これ。

だから、今の環境が合わなくて変えるための選択肢も現実的でないなら、とりあえず行かなくてもいいと思うんだな。

 

でも、デメリットも心に刻んでおかなければならない。どんな状況であっても、決めたらその結果は自分で受け止めなくてはならない。

逃げるが勝ち、を学ぶ機会だったのか、問題に取り組んで解決するのを学ぶ機会だったのかは、時が経ってからでないと分からない。

先送りにはできても、たぶんいつかはその問題に向き合わなきゃいけなくなることの方が多いだろうから。

環境に合わせる、変える、人間関係の問題を解決する。周りとうまくやっていく。大人になれば、職場では、当たり前にできるものとして扱われる。よほどの特殊能力がない限り、大多数の人は雇われて生活の糧を得る。ブラック企業は当然論外だけど、やっぱり必要なスキルなのだ。

出席しなければ、内申点は下がる。進学やその先に支障が出る。学歴ないとなかなかまともな仕事につけない。まあ、今がなければその先もなくなっちゃうんだけど。生活に困窮したときに心の底から思ったのは、明日の朝飯より今日の夕飯、である。

勉強は自分ですればいい。自分じゃできない、というのならやっぱり学校に行ったほうがいい。塾や家庭教師はお金がかかる。これらほどの丁寧さはないかもしれないけど、まとめて勉強をみてくれるのは、やはり学校なのだ。すべての勉強がはっきりと目に見える形で役に立つわけじゃない。数学の公式を直接使うシチュエーションはたまにしかない。(ホントに、たまにあったりするのだ。)学ぶこと、知ることそれ自体が必要な経験だと思う。義務教育で学ぶべきと定められていることは、ものごとの基本の理屈だから。生きる上で理解しておいたほうがいい道理だから。

「生きているということは知ることなのだ」。うーん、ジパングの名言である。

デメリットと考える必要のないことは、周りにどう思われるか、ということ。どうせすぐ忘れる。他人は案外見ているが、案外見ていないのだ。

 

大人になってからのほうが、スムーズにいくこともあると思うんだな。あんなに泣いていたのに、今はニコニコしていて友だちも多く過ごしている人を知っている。

私はかなりの余計とも思える苦労をして、大人になってから環境や人間関係の問題に取り組んだ。年を重ねてからのメリットもデメリットもあった。気づいて理解するまでに時間が必要だったんだな。ばっちり分かったかというと、そうでもないかもしれないけど。いまだになるべく人と接しない仕事がいいと思っているし、失敗することも多い。

でも、長い一人暮らしでたくさんの人の厚意があって、自分なりに自立したし、なんとか生きてきたと思う。

人生の次のフェーズに進んだとき、私は自分がちょっとはたくましくなっていてよかったと思った。強くなったから、進めたのかもしれない。どっちなのかは、分からない。

不思議なことに、あのときちゃんと学校に行っておけばよかったな、という後悔は全くない。今戻って学校に行ってみたとしても、たぶん居場所は作れない。より賢く学校に行かない方法を考えそう。

自分の中にある後悔は、例えば「もっとメンタル的にタフでありたかった」とか、「広い視野がほしかった」とか、「とはいえもっと勉強しておきたかった」とか、「今の夫と同じ高校に進学したほうがよかったのかも」とか、つまり今でないと言えないことばかりなのだ。

そのときの選択がどうであれ、これが私の人生のようだ。褒められたような人生ではないけど、選んだ結果を受け止める。

世の中に求めたいこともたくさんあるけど、変えるような力は私にはない。与えられた条件の中でなんとかやっていくしかない。これからもなんとか生き延びていきたい。

  

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